◇◆◇古代の鹿革製品◇◆◇


(元北海道大学農学部 竹之内一昭) 2016.01.05


 

鹿革の特徴は軽量性、強靭性、柔軟性および染色性に優れていることである。毛皮や皮革の衣服としての利用は防寒用や身体保護用に太古より始まり、「日本書紀」には、おお鹿が海から来たが、よく見ると角のある鹿の皮を身に着けていたとか、雨よけの雨衣(雨皮)は皮で作るとある。唐招提寺の奈良時代の重文「衆宝王菩薩立像」は鹿皮をまとっている。鎌倉時代の絵巻物に僧が鹿の皮衣を着ている姿がしばしば描かれている。

平安時代後期の僧行円は鹿皮の衣を常にまとっていたので、皮かわの聖人ひじりとよばれ、また建立した行願寺(京都)が皮堂かわどうともよばれた。古代エジプトの僧侶や王が豹の毛皮を身に着けた壁画がある。


古墳時代(3世紀末~7世紀末)の人物埴輪は長沓や短沓をはいており、これらは皮を縫い綴じた沓と思われる。奈良時代には、舃せきのくつ・履り・靴かのくつ・鞋かいなどの履物が中国から伝来した。舃は革製の二重底で、履より格式の高い礼装用であり、烏皮くりかわの履くつと称した。靴は足首の長いものであり、鞋は底が革で縁が革または布帛であった。正倉院には、爪先が反り上がった赤い納のうの御礼ごらい履りや黒い履があり、いずれも牛革製であるが、内張りは鹿革である。 


鞍は古くは革製であったが、中国では三国・南北朝時代以降に木製の鞍が流行し、日本にも古墳時代に輸入され、日本でも作られた。正倉院の鞍は木製の鞍くら橋ぼねに鹿革の鞍くら褥じきが敷かれ、さらに鞍橋の下に牛革などの韉したぐらと鹿革で縁取りをした麻布などの屧脊なめが取り付けられている。馬の尾を束ねる尾袋には、鹿や牛の革が用いられた。牛の尾袋は脆くなっているが、鹿の尾袋は1300年経った現在でも、鮮明な紫色でしなやかさを保持している。平安時代の韉には豹や虎、鹿の毛皮が使用された。馬の両側に下げた泥障あおり(障泥 泥除け)にも虎や豹の毛皮が用いられた。「延喜式」では、北海道産の羆皮も挙げられている。


弓矢を入れて携帯する容器に、矢尻を上にして入れる靫ゆきと下にして入れる胡こ禄ろくがあり、矢を束ねる紐、それを背負う帯に鹿革が使用された。弓の弣ゆづか(握り)にも鹿革が使用された。矢を射るときに手を保護する鞆ともは「日本書紀」では鹿皮を縫い、胡を塗り墨で画を描くとあるが、正倉院のものは牛または馬の革であり、手と緒にそれぞれ牛と鹿の革が使用されている。 


聖武天皇ゆかりの品を記した「東大寺献物帳」には、太刀の帯執おびとり(鞘の金具と腰に付ける緒をつなぐ緒)と懸かけ(把に付いている緒)が紫皮や黒皮、白皮、洗皮と記されている。正倉院の太刀の帯執は紫色と薄茶色の鹿革である。 


古墳出土の甲冑には、短冊形の小札こざねを糸もしくは革で緘からみ威おどした膝までおおう挂けい甲こう(うちかけよろい)があり、また正倉院の御甲おんよろいは鉄の小札を革紐でとじているが、これらの革紐は鹿革と見られる。茶すり山古墳(兵庫)の兜に鹿の毛が付着していたが、これは兜内側に鹿革をクッションとして裏張りしたことを示唆する。大谷古墳(和歌山)から出土した鉄製小札の馬甲に鹿毛が付着しており、鹿革の紐で札をつなげたと思われる。「延喜式」には、短甲冑や挂甲の素材として、牛や馬、鹿の革が記され、さらに修理には馬革と洗革(鹿革)を用いるとある。平安中期頃から大形の大鎧が騎射戦に有効なので普及した。これには革(練ねり革かわ)の小札が用いられ、中には鉄札を交えたものもあった。札を横にからむ革紐(綴とじ革かわ)には牛革や馬革を用い、その札板を上下につなぐ(威おどす)のには鹿革を用いた。


 雅楽は5~6世紀に中国や朝鮮から伝来した舞楽が日本古来のものと融合し、平安時代に宮廷や社寺で荘厳な音楽として栄えた。音曲と並んで遊戯として蹴鞠、競技として流鏑馬やぶさめがある。蹴鞠は鹿革製の白または熏くすべの鞠を革沓で蹴った。この沓は牛革のようだが、流鏑馬の物射沓ものいぐつは立挙の外側が白しら革かわ(鹿革)である。


撮影:西興部村前村長 高畑秀美氏
撮影:西興部村前村長 高畑秀美氏

 

「かわ」の漢字に皮、革、韋がある。皮を脱毛して、鞣したものが革であり、韋は古くから鹿革の柔らかくしなやかな特性を他の動物の革と区別する用語であり、紐類に多用されていたと考えられる。

 

 

(参考文献:皮革製宝物材質調査, 正倉院紀要28号)