◆◇正倉院の鹿毛筆


(元北海道大学農学部 竹之内一昭) 2016.07.05


 正倉院には聖武天皇(701~759)ゆかりの美術工芸品や生活用品が9千点ほど収蔵されており、それらの数十点が奈良博物館の秋の「正倉院展」で展示されている。収蔵品の中に、動物の毛を用いた筆や伎楽面、毛氈などが多数含まれており、それらの材質調査をした。 


 正倉院の筆は天平宝物筆1本と筆17本の計18本である。斑紋を持つ竹を管として、象牙の飾りや黄金の帯が付けてある。現在の筆は獣毛を糸で巻き竹管の中に挿し込み(すげ込み)、フノリで固めたすいひつであるが、正倉院の筆は全て紙を巻いたまきふでである。 これは中心の毛(芯毛)の腰部分を和紙で巻き、さらに毛で巻き、これを繰り返し、一番外側に化粧毛を被せ、根元を糸で巻いて竹管に挿し込む製法である。筆全体を筆穂と言い、竹管から出ている穂を筆鋒と言い、その尖端部分を穂先あるいは命毛とも呼ぶ。穂形から長鋒、中鋒、短鋒に分類され、正倉院の筆は短鋒筆で、その形状が雀の頭に似ていることから雀頭じゃくとうひつ」と称されている。 


 天平宝物筆は管長が56.6cm、管径4.3cmであり、管には、「文治元年八月廾八日開眼/法皇用之/天平筆」とある1)天平勝宝4年(752)の東大寺大仏開眼会に使用されたのち、文治元年(1185)再建なった大仏開眼供養の際にも後白川法皇が用いたとされてい る。


この筆は毛が巻紙を挟んで5段構造になっている「五営成筆」の巻筆である(図1)。第1営(芯毛)は尖端部がほぼ残っており、今でも文字が書けると思われる。第2 ~ 4 営の毛は部分的にしか残っておらず、第5 営(化粧毛)の毛は全て脱落している。第1 営には墨が大量に付着しているが、第2 ~ 4 営の残毛の先端部分に墨が多少付着しているだけである。このような大筆では、筆鋒の先端部だけを下して、使用したことが推測できる。


 第1営は毛色が濃茶色あるいは黒色である。毛皮質は比較的厚く、細かな毛髄質が観察され、馬毛または鹿毛と推定される。第2営は白っぽくて、毛皮質が薄く、空隙の多い毛髄質から鹿毛と判定した。鹿毛には日本産あるいは中国産、東南アジア産(山馬)のものがある。第3、4営の毛も第2と同様であり鹿毛と判定した。抜けた毛が一本観察され、根元部が急に細くなり無髄になっている。これは鹿毛の表皮付近の根元部の特徴である。第5営は毛の2 層と、外側に鳥羽根の層の計3 層構造となっている。下層の毛は色が茶褐色で、形状は丸く、ストレートに近く、透明な飴色に見えることから、毛髄質のない馬毛の可能性がある。上層の毛は、摩耗が著しく、毛色が白く、毛髄質は多孔質(格子状)で、毛小皮紋理(スケール模様)は大きな鱗状(横行波状または山形)となっており、鹿毛の可能性がある。さらに、最外層には擦り切れて折れた白色と黒色の羽軸が観察される。鳥種は不明である。儀式用筆の飾りとして巻かれたものと思われる。


 筆毛の材質について、過去の調査結果(昭和28~30年)では、「大きい鱗片を持った毛は鹿毛で、少し褐色を帯びた細い毛は羊毛と見られた。穂毛の芯は黒く、狸毛と判定した。」となっている。しかし、筆業界では山羊毛を「羊毛」と称し、当時山羊毛を使用した事例は見たらず、今回の調査では化粧毛の下層は馬毛と推定した


 筆は第1号から17号の17本あり、大部分は管長が17~22 cm、管径が1.9~2.3 cmであり、第8号と第16号がそれぞれ10.9 cmと14.4 cmと短く、第16号と17号が共に1.4㎝と細い。これらの筆の11本が3 段構造の三営成筆の巻筆であり、他の6本が4段構造の四営成筆である。第2号は明治時代に修理した形跡がある。第1~16号は筆鋒が円形であるが、第17号は楕円形であり、竹管内部を楕円形に削ってある。

これらの筆に使用されている獣毛は主に鹿と兎、狸であり、他に馬、山羊の毛と判定あるいは推測された。各営が同種の毛からなるものと異なるものがあった。


第8号は第1営が残存しておるが、第2営が一部欠損しており、第3営が数本残っている(図2)。この筆には笠状の筆帽があるが、他に円筒状の物もある。第8号の各営の毛は寸胴形、円形の断面、横行波状のスケール模様、毛髄質の多さなどから鹿毛と判定された。第6,7,10,12号は各営がダンベル状であり兎毛と判定され、第9,11号は兎毛と推定またはその可能性があった。第15号はスポンジ状の毛髄質と比較的厚い毛皮質から狸毛と判定された


 第2号の第1~4営は鹿毛と山羊毛または狸毛との混合と判定または推定された。第3号は第1と2営が兎毛であったが、第3営は鹿毛であった。第4号の第1営が鹿毛または馬毛と推定され、第3営が鹿毛と狸毛の混合と判定されたが、第2営は第3営に覆われ観察できなかった。第5号は第1営が鹿毛または馬毛と推定され、第2,3営が兎毛と判定された。過去の調査でも兎毛と判定されている。第16号は3営構造であり、第1,2営が狸毛と推定されたが、3営が3層構造であり、狸毛と鹿毛、鳥羽であった。


第1号は第1営と2営が狸毛と判定または推定されたが、第3営は奥深いところに残っており、観察が困難であった。第13号は第1営と4営が狸毛と推定され、過去の調査と一致した。なお第2,3営は4営で覆われ観察できなかった。第14号は第1,3,4営が狸毛と推定されたが、馬毛の可能性もある。第2営は茶色であったが、種類は不明であった。第17号は第1,2営がそれぞれ狸毛と推定されたが、第3営がダンベル状であり兎毛と判定された。なお過去の調査では、上毛は羊毛とされていた。 



     図1 天平宝物筆1)                        図2 筆 第81)


 参考文献 1) 竹之内一昭,奥村章,福永重治,向久保健蔵,実森康宏,ジョリー・ジョンソン,本出ますみ:毛材質調査報告,正倉院紀要, 37 (2015)    P. 1.